伊奈海道の話 その2

いまから30年以上前、武蔵村山の「村山ハイツ」

というところの 元米軍ハウスに越して来ました

f:id:cafelegume:20190216233742j:plain

 

米軍ハウスは 福生側や 立川のアメリカ村などが有名ですが

横田東ゲートに近い このあたりにも たくさん建てられたのです

 

私たちの友だちが ハウスに越して来た時には、

もう30軒くらいに減っていましたが

その引っ越し祝いに来たついでに 不動産屋さんに聞いてみたら 

ちょうど、手ごろな家がもう一軒 空いていたのです

 

で、すぐ仮契約して

一カ月もしないうちに 

私たちも 越してきてしまいました

 

地図を書くとこんなかんじです

f:id:cafelegume:20190216235210j:plain

最初に来た頃は「海道緑地」はもっと広くて

f:id:cafelegume:20190217000535j:plain

最初に住んだ家の近くまで 迫っていました

引っ越ししたころは 庭で蛇のぬけがらを 何度も見つけたものです

 

 

自宅南の5差路は いまはこんなかんじですが

f:id:cafelegume:20190217001057j:plain

その当時はジョナサンも その向こうの建物もなく

武蔵野の雑木林が 5差路の三方を占めていて

向こう側に見える道は 

フェンスも何もない うっそうとした林の中を

抜けていたのです

 

いま、村山ハイツのバス停の裏は

f:id:cafelegume:20190217002215j:plain

当時あったガソリンスタンドや 食堂やお寿司屋さんもなくなり、

ハウスの代わりに 一軒家や アパートが建ってしまって

 

なんで「村山ハイツ」というのかが

どんどんわからなくなっています

 

米軍ハウスは、かろうじて数軒 残っています

 

でも、時間の問題ですね

 

その時は 停留所名も変わってしまうのかなあ

 

 

伊奈海道のはなし 1

今から30年以上前 武蔵村山に越して来た時

家の周辺に 「伊奈海道と呼ばれる雑木林」がありました

 

その理解は、三分の一くらい正しくて 

三分の二は違っていたのですけど

 

その話をする前に

「海道」という言葉について 整理しておかないといけません

 

 

昔から「五畿七道」というのがありました

略図をかくと

f:id:cafelegume:20190216220436j:plain

畿内を中心として 東側に三道、西側に四道です

この場合の「道」は、街道ではなく

街道がつないでいる「地域」を意味します

 

というより、畿内から見た 「どっち方面」

という 大ざっぱな呼び方ですね

 

東の海の方=東海道

東の山の方=東山道 

というかんじです

 

九州なんか まとめて「西海道」とされていますし、

四国は いまの和歌山と合わせて「南海道」です

 

久保田香里さんが

古代の街道に設けられた駅家の娘の話を書いていて

f:id:cafelegume:20190216224230p:plain

『駅鈴 はゆまのすず』2016 くもん出版

 

とっても面白かった という記憶だけあるのですが

近江の国が舞台なので 東山道沿いだったのかなあ

 

このころの主要道は、なんといっても山陽道で、

太宰府まで大路が続き、駅ごとに馬が20疋いたそうです

 

東海道東山道は中路で10疋ずつ、 それ以外は小路で5疋

ということなので 

主人公「小里」のいた駅は小さかったような気もするし

もしかすると北陸道かも・・

 

 

で、話を元に戻すと、江戸時代には「街道」という言葉は 一般的でなく、

いまなら「・・街道」と呼ばれる道路も、「・・道」

あるいは「・・往還」、「・・道中」という言い方だったようです

 

先の「江戸街道」も 江戸時代の絵図では「江戸道」です

 

といって、「街道」がまったく使われなかった

ということもないのですけど その場合でも

「海道」と、「海」の字を使うことが多かったとか・・

 

なので、

「海道」という時、

「北海道」みたいに 地域の広がりをさす場合と

「街道」としての 道を表す場合の

二通りがあるということを押さえて 今日はここまで

 

 

おまけ

 

東山道」は「中仙道」とか「中山道」とも呼ばれています

1716年に新井白石の意見を取り入れて「中山道」に統一されましたが

そのときの幕府のお触れが「山」は「セン」と読むべし

ということで、

山陽道」は「センヨウドウ」

山陰道」は「センインドウ」

になってしまったとか

 

ほんとかなあ・・

 

 

あたらしいねこが庭にやってきた

今日のお客さまは5人でした

f:id:cafelegume:20190214220455j:plain

以前、「かきのや」のご主人が

「一日5人がちょうどいい」と 話していましたが

 

たしかに のんびりと お相手できて

しかも「おいしい!」をいっぱい頂けて

なんとなく満ち足りてしまう 

ちょうどいい人数 です

 

もう一組・・

なんて言ったら ばちが当たりますよね

 

庭のカフェの方は

f:id:cafelegume:20190214221628j:plain

鳩やスズメが 一日5羽なんて 関係なくやって来て

 

シジュウカラ

f:id:cafelegume:20190214222137j:plain

 

メジロヒヨドリ

f:id:cafelegume:20190214222236j:plain

顔を出してくれました

 

この小鳥に誘われて よく近所のねこたちも やってきます

f:id:cafelegume:20190214222441j:plain

でも、やせているか 太りすぎているねこばかりなので

動きが みんなノソノソしていて

ほとんど、小鳥たちの脅威にはなっていませんでした。

昨日までは。

 

で、

 

今日、新しいねこが 登場したのです

f:id:cafelegume:20190214223531j:plain

 

まだ、若いみたいで 動きがとても俊敏です

f:id:cafelegume:20190214223704j:plain

 

とりあえず このネコが庭にいるうちは 小鳥たち、降りてきませんでしたが

 

f:id:cafelegume:20190214224531j:plain

明日からの この子たちの運命はどうなるでしょう・・

2月2週のメニュー

今週のメニューです

f:id:cafelegume:20190212211812j:plain

 

大根と白菜、人参のクリーム煮

f:id:cafelegume:20190212212532j:plain

 

カリフラワーとブロッコリーのサラダ

f:id:cafelegume:20190212212629j:plain

今週は カリフラワーとブロッコリーがたくさん採れたので

割合を増やして「カリフラワーとブロッコリーのサラダ」

になるはずだったのですが、他の野菜もいろいろあって 足していったら 

結局いつもの「季節の野菜サラダ」とあまり変わらなくなりました

でも、いつもより割合は多いです

 

白菜の春巻(鶏肉が入っています)

f:id:cafelegume:20190212213024j:plain

 

他は省略して

プレートの全体像

f:id:cafelegume:20190212213825j:plain

 

あと、今週のスウィーツは

f:id:cafelegume:20190212214524j:plain

オレンジのパウンドケーキです

 

**************

 

で、こないだ、初期投資を考えなければ

うちのカフェはそこそこ という話を書いたら

 

「えっ、初期投資に関係なく

うちのカフェ 赤字だよー 」

 

と、今日、言われてしまいました

 

・・・

 

・・・・

 

たしかに、最近そういえば お客さん少ないー

 

・・・

 

・・・

 

まあ、赤字でも 担当は元気なので

 

ここはとりあえず

 

「カフェ修業中の授業料」と思うことにして・・

 

 

まずは お客さまを増やさないとー

 

 

店の外の 看板だけでは

f:id:cafelegume:20190212221849j:plain

 

遠くからでは お店とわからないのかも・・

f:id:cafelegume:20190212222453j:plain

 

と、思ったら 今日は

里山歩きを楽しむ会」的な人たちが3人 

ナップザックをしょってきてくれました

 

なんでも、このへんを歩いていたときに

「あら、こんなところにお店があるー」と気づき

次に来てみたときは お休みで

今日が三度目の正直なんだそうです

 

f:id:cafelegume:20190212223233j:plain

みなさん、「おいしい」「よかったねー」とおっしゃって

 

コーヒーとパウンドケーキも食べ 直売のブロッコリーも買っていってくれました

 

これから、野山北の方へ向かうそうです

 

 

ちゃんと、外の看板も役立っているのですね

引又街道の話 その一です

最近、街道の話ばかりですが、農閑期だと思って

しょうがないなと お付き合いください・・あと、もうちょっとです

 

 

村山では、

縦の道(南北の道)は中世、

横の道(東西の道)は近世、

とよく言われていたそうです

 

これは 岸村の延享二年(1745)の絵図です

f:id:cafelegume:20190211211011j:plain

 

模式図がこちらで 横の道は

f:id:cafelegume:20190211173232j:plain

一番上が箱根ヶ崎道、今の旧青梅街道です

その下の線は残堀川で さらにその下に

三田領より江戸道と書かれている道が2本あります

(一番下の伊奈道は 今度説明します)

 

松並木のある 下の方の江戸道は いままで何回かに分けて

紹介してきた「江戸街道」です。

その北の江戸道は 残堀川とぶつかったところで終わっていますが

ここは、今の武蔵村山高校の北側に位置し(富士見橋)

その先は三ツ木村になってしまうため 略されたみたいです

 

この上の江戸道は「引又街道」とも呼ばれています

ずっと東に続き、東大和、東村山、清瀬を通って

志木市で、荒川支流の新河岸川、引又までつながっているのです

 

 

 

さて、この二つの江戸道、どっちが先にあったのでしょうか?

 

南側の道は 江戸に石灰を運ぶために

大久保長安が17世紀初頭に作らせた 直線的な道です

まわりに人家はなく、ほとんど原野で 

盗賊がたくさん出た といいます

 

対して北側は 今の新青梅街道の位置に沿いながら

畑の中を くねくねと曲がって続いています

いわば、人間が自然に歩くことで できた道です

 

畑なので、少しは見通しがいいし 昼間はそれなりに人目もあるので

南の道よりは 安心感があったのでは と思いますが

問題は このへんが畑になったのは どうも徳川以後みたいなのです

 

中世、太田道灌の時代には 村山の人々は

今の旧青梅街道より奥の山沿いに暮らしていて

旧青梅街道自体が「根通り」と呼ばれていました

 

そのあと、北条氏の支配下になり

北条氏は新規開墾を奨励していますが

それは あくまで水田に限られていました

 

徳川の時代になって 家康が検地を行い

新田開発(畑も含む)に報奨金をつけて奨励するようになると

村の人々は 旧青梅街道の南側を開墾するようになり

それに飽き足りない人々が 外に乗り出していくのですね

 

岸村からは 17世紀はじめに村野家が砂川の開発へ 

その後 玉川上水が開通した1654年以後に

小川九郎兵衛が小川新田へと出ていっています

 

引又に河岸ができ、荒川水系を使って江戸との船運が始まるのは

1647年といわれています

青梅、奥多摩地方の物産も多く扱うようになり

たくさんの人が行き来するようになりました

 

 

なので、この二つの江戸道は 

どちらも同じころ

江戸の初期には できていたのではないでしょうか?

 

計算すると・・

どちらも

400年弱くらいの歴史です

 

ただ、引又街道の方が 塚なども多く

庶民に利用されていたように思えます

 

カフェの近くで 引又街道が通っている場所は

f:id:cafelegume:20190211204544j:plain

新青梅街道と山口街道(福生街道)の交差点にあった

もとリンガーハット(右の赤い屋根の建物)の 南側です

f:id:cafelegume:20190211204951j:plain

これは西側から見たところ

 

東側から見ると こんなかんじで

f:id:cafelegume:20190211205224j:plain

右にある新青梅街道は やっと50歳、

左の細い道が 400歳ということになります

 

この写真のつきあたりの もとリンガーハット の先には

f:id:cafelegume:20190211205709j:plain

こんな細い道が続いています(左は山口街道)

 

長くなってしまったので 

江戸時代から いろいろな悲哀を見てきたはずの この引又街道については

またいつか ですね

 

 

追記

 

最初の図の縦の道は、

一番左が阿豆佐味天神社から南に下る道で 

ジョイフルのひとつ東側の通りです

右側の2本は グリーンタウンを挟んだ両側の通りで

どちらも 江戸街道より南側はいま その痕跡をとどめていません

ブログ更新遅れのおわび

ここのところ ブログの更新が遅くなっています

 

その 言い訳です

 

ひとつは ブログ担当の調子がイマイチで

前向きなエネルギーが あまり出てこないのです

 

2月に入ってから お酒をやめているのですが

なかなか 回復しません

 

 

もう一つの理由は

税金です

 

青色申告の時期が近づいているので

f:id:cafelegume:20190210230817j:plain

カフェ担当が パソコンでいろいろ入力をしているのです

 

市からは「償却資産申告書」も提出するように言われていて

f:id:cafelegume:20190210231010j:plain

担当は いま一年間ためた領収書を整理しながら 悪戦苦闘しています

 

野菜直売のお金も 一年間分をここで数えていました

f:id:cafelegume:20190210231847j:plain

(これに千円札がもう少し)

 

で、わかってきたことは・・

 

うちのカフェ

 

赤字です!

 

それも、とっても赤字です

 

 

早い話が 

カフェを始めるためにかけた費用の回収が 

できていないのです

 

駐車場とか流しとか冷蔵庫とか・・

 

 

商売としては 失格ですね

 

 

でも、この初期投資がなかったことにすれば

(だって、払っちゃったものは戻って来ないし)

 

光熱水費や固定資産税、衛生組合費や保険などを払っても

なんとなく お釣りは来ているみたいです

 

つまり、お店を開けば開くほど赤字になる

という事態ではなく

開けば開くほど 初期投資の回収ができる

という関係みたいです

 

営業日を増やすとか 夜もやるとかすれば、

もう少し早く 投資の回収はできそうですけど

 

そこまでは とてもできないので

 

やっぱりここは

あったものもなかったことにする 

今の政府を見習って

 

初期投資?なに、それー 食べられるもの?

という路線で 毎日の 近視眼的な売上統計に 特化しましょう

 

目先の一喜一憂は なんて楽しいんでしょうね

 

あっ、市や税務署には ちゃんと

あったものはあったこと として報告しますよー

 

 

 追記

 

事態はもうちょっと違ったみたい

12日のブログをみてください

太田道灌 その後の話

長尾景春が父、景信の後継に認められなかったことで

山内上杉顕定に反旗を翻したのは1476年です

 

太田道灌山内上杉顕定に味方して

村山に陣を構え 景春勢と戦いながら

関東南部を平定するのは 1478年ですが、

 

その後、道灌の人望が高まったことから

山内上杉顕定は、道灌の直接の主家

扇谷上杉定正と共謀して 1486年には

相模国糟屋(今の神奈川県伊勢原市)で

道灌を暗殺してしまいました

f:id:cafelegume:20190210205800j:plain

これは、伊勢原市大慈寺に伝わる太田道灌の絵です

(市のホームページ いせはら文化財サイトから)

 

そこは定正の自分の屋敷で 道灌にお風呂を薦め、

湯上りの時に襲ったそうです

伊勢原市には 道灌の墓や家来たちの塚も残されています

 

道灌54歳の生涯でした

 

このあと、山内と扇谷の両上杉家は お互いにいがみ合って

1487年より抗争を始め(長享の乱

1505年まで えんえんと戦っています

 

1504年には また立河原(立川・国立)で一大決戦があり

勝った扇谷側だけで 2000人が戦死したと伝えられています

 

 このころは、鎌倉と河越城、越後などを結ぶ動線

狭山丘陵と交差しており、それぞれの軍勢がどの道を通ったのか

いろいろ考えてしまいますね

 

さて、上杉定正は1494年に 

荒川を渡る際、落馬して死んでしまい

道灌の亡霊に殺されたという話になっています

51歳の生涯でした

 

その後、山内上杉側が優勢になって

上杉顕定の方は、上杉家の内紛で越後まで攻め入り

上杉謙信の父親を追いやって 統治します

でも、強権的な性格で、国中の反発を買い

1510年に 敗走して自刃しています

享年は57歳でした

 

で、長尾景春は と言えば、この誰よりも長生きし

1514年 72歳の生涯をまっとうしています

 

 

 

武蔵野郷土史刊行会の『多摩の歴史 1』を読むと

田無は道灌のひ孫 太田康資の所領となっていて

二宮城にいた大石氏と道灌が和睦した後 太田氏に引き継がれたもの

ということになっています

 

でも、二宮城の大石氏の勢力は田無まであったのでしょうか?

本によると、そのころの武蔵野は 

なんにもない吹きっさらしの野原だったそうで

秋川から 馬を駆って遠出するのに

ちょうどいい距離だったそうです・・

 

たしかに、武蔵7党は 馬を調教する集団だった といわれていますが

さすがに田無は、練馬、石神井にいた

豊嶋氏の勢力範囲だったんじゃないかなあ・・

 

 

太田道灌のはなし その三 山口街道

昨日の記事の続きです

 

真福寺付近に陣を張った太田道灌軍は

山口街道を使って 秋川に進軍します

 

先日 教えていただいた比較地図で

カフェの位置を もう一度確認してみると (赤い十字がカフェの位置)

f:id:cafelegume:20190210140626j:plain

山口街道は カフェのすぐ近くを通っています

 

明治の時代には 江戸街道と山口街道、残堀川で囲まれた地域

に集落ができ始めていますが、

道灌のころは ただの草地だったのでは ないでしょうか

当然、江戸街道もまだありません

 

昭和8年の地図も見つかりました 

f:id:cafelegume:20190210141126j:plain

まだ、横田基地はないので

山口街道が まっすぐ福生に向かっているのがわかります

残堀から天王橋までも はっきりとした道ができています

 

カフェの近くから 山口街道を北側に向かって見てみました

f:id:cafelegume:20190210150946j:plain

つきあたりの丘陵が狭山丘陵で、真福寺は少し右手になります

手前右側は 空き家になったリンガーハットです

 

いまは道幅が10メートル以上ある この道も

道灌が通った時は、たぶん 3メートルもなかったのではないでしょうか

(そのころの道は最大でも二間 と何かに書いてあったような・・

あっ、国分寺を通っている鎌倉古道は別格で七間あります。江戸街道も五間)

 

 

そこを 馬に乗った道灌たちが 進んでいくわけです

(馬に乗っていたかどうかは 定かではありません。300騎くらいで

陣を張っていたとして ほんとうに300頭も馬がいたのでしょうか?

でも、道灌が歩いていくなんてありえないですよね)

 

秋川の二宮まで10キロくらいなので 馬だと

走りぬけたら あっという間に着いてしまいます

 

あっ、でも 途中に多摩川がありますね

どこで渡ったのかなあ

 

カフェの近くから 今度は南側を見てみます

f:id:cafelegume:20190210150728j:plain

右側の赤い旗が郵便局で 突き当りが三ツ木ー八王子線、 

新残堀橋の交差点になります

なんの変哲もない道で、全然 道灌と結びつきません

 

この残堀橋を渡った先は 急に道が狭くなって

f:id:cafelegume:20190210154738j:plain

右側に残堀自治会館と神明社があります

 

神明社には

f:id:cafelegume:20190210155422j:plain

いろいろな石碑や 

f:id:cafelegume:20190210160320j:plain

f:id:cafelegume:20190210160023j:plain

庚申塔があり

f:id:cafelegume:20190210155650j:plain

やっと、少し 歴史の道らしくなってきました

 

でも、この先は

f:id:cafelegume:20190210161149j:plain

また急に開けてしまい 江戸街道と合流して その先の道がないのです

f:id:cafelegume:20190210161409j:plain

 

ここで、地図をもう一度確認すると

f:id:cafelegume:20190210162231j:plain

江戸街道に交差するところが 直角に曲がっていました

 

今の地図Aで確認すると 残堀の(五)から残堀の(四)に

f:id:cafelegume:20190210162519j:plain

手前で曲がらないといけないみたいです

 

曲がって江戸街道とぶつかったところは ファミマのある交差点でした

f:id:cafelegume:20190210163858j:plain

左の奥の方に 斜めの道があります

f:id:cafelegume:20190210164303j:plain

 

これをどんどん行くと

f:id:cafelegume:20190210164444j:plain秋川の山が見えてきました

 

もっとまっすぐ行くと

f:id:cafelegume:20190210164752j:plain

舗装がなくなりました

 

ここからは 畑の中の道です

基地の高層住宅が 左に見えています

f:id:cafelegume:20190210165112j:plain

 

しばらく行くと 二股に分かれていました

f:id:cafelegume:20190210165456j:plain

どっちでしょう?

 

左側の道を 進んでいくと

f:id:cafelegume:20190210165855j:plain

横田基地にぶつかりました

f:id:cafelegume:20190210170111j:plain

 畑がフェンスまで迫っていて これ以上進めません

 

右側の道は

f:id:cafelegume:20190210170326j:plain

さっき行きどまった 

f:id:cafelegume:20190210170515j:plain

横田基地のフェンスを左に見ながら しばらく進んで

f:id:cafelegume:20190210170820j:plain

やっぱり 行き止まりました

 

フェンス沿いには道があって 時折り 米軍の車両が走っています

 

もう一回 地図A をシゲシゲと見て

太田道灌は 左の道を通り、基地内の道路を通り

そのまままっすぐ滑走路を横切って 福生側に抜けていった

 

と 結論付けました

 

 

基地の向こう側の道灌の足取りは また今度ですね

太田道灌の話 その2

太田道灌が 村山に陣を敷いたのは

市史によると 文明10年(1478)3月ごろになっています

 

ただ、市史を何度読んでも、国語力がないのか

前後関係がよくわかりません 

 

整理すると

文明8年(1476)に始まった長尾景春の乱は

当初 こんな勢力関係でした

f:id:cafelegume:20190209230555j:plain

青いところは ほとんどありません

道灌が造営した江戸城河越城岩槻城だけです

 

上杉側は 人気がなかったんですね

 

道灌は まず石神井城と練馬城の豊嶋氏を攻めます

河越にいる 父の道真と連携することが一番で

その間に敵がいたら まずいですものね

 

でも、これを攻め滅ぼすのに文明9年4月から

文明10年1月まで 7か月かかっています

 

時には負けて追いかけられ 

黒猫のお導き?で助かった ということで、

新宿の落合あたりに道灌が のちに黒猫神社を建てたとか

という 嘘かほんとかよくわからない話もあります

 

そのあと 河越の先へ進むと 埼玉の奥の方で景春軍と戦っています

 

その一方で 道灌・上杉の別動隊は

南多摩や、相模の城を 南から攻め上がっていました

 

強力だったのは小机城で、豊嶋氏の残党も合流しています

 

景春も 小机城の応援のため 二宮城の勢力を増やしており

それと対峙する形で 道灌は村山に陣を構えたのです

 

陣を構えた3月には 埼玉の坂戸や羽生で戦いがあり

景春を 熊谷まで敗走させることに成功します

 

で、このあと

景春と切り離された 南側の勢力は 一気に攻め落とされ

(小机城は文明10年4月10日に落城しています)

最後は奥三保(おくさんぼう 津久井、相模湖など)で

残党狩りが行われています

 

二宮城がいつ降伏したかは よくわかりませんし

もともと、道灌軍がどこに陣を構えたかも不明ですが

 

真福寺リーフレットによると

f:id:cafelegume:20190210000634j:plain

道灌軍は 真福寺から山口街道を通って 

二宮まで攻めていったことになっています

 

この 「山口街道」というのは

カフェのある 三ツ藤住宅の北側を通っている道です

f:id:cafelegume:20190210002136j:plain

一中や オザム、西武信用金庫、郵便局などがある通りで

実際に そうだとすると

今まで何度か話してきた「江戸街道」より 

ずっと古くからある道なんですね

 

で、実際に歩いてみましたが

 

その話は また明日

 

 

太田道灌 村山の陣

今から500年以上も前、

江戸城をひらいたという あの太田道灌が村山にやってきました

 

いえ、正確に言うと 太田道灌が来たかどうかはわかりません

太田道灌の軍が やってきたのはたしかですけど

そのころ、関東のあちこちで戦いがあって

太田道灌軍の主力は 横浜の小机城を攻めていたみたいなのです。

 

市史とか 物の本ではみな 「太田道灌 村山の陣」 として

本人が来たことになっていますし、

まあ、そのほうが盛り上がるので 

ここでも、来たことにして話を進めます

 

まず、なんで 村山に? という話なんですが、

これが 話すと とっても長い話なんです

 

本当に複雑なので ここでは簡略化して話をすると・・

 

当時、室町時代の幕府は 鎌倉に足利家の血筋の者を置き

関東を治めさせていました(鎌倉公方

実際には 有力な武将何人かが家臣となり、

実務をするしくみです(関東管領

やがて、武将のうち 上杉家が実権を握るようになり、

しかも、上杉家の中でも争いがあって

山内上杉氏と扇谷上杉氏の2系統に絞られて行きました

 

この山内上杉氏重臣が長尾氏、

扇谷上杉氏の重臣が太田氏です

 

実権を握られている鎌倉公方は 面白くないので

関東管領との争いが絶えず

1439年には 上杉氏が 鎌倉公方足利持氏を自害させ(永享の乱

1454年には 逆に鎌倉公方足利成氏

山内上杉憲忠を謀殺してしまいます(享徳の乱

 

足利成氏は、このあと茨城の古河まで逃げるのですが その途中

翌1455年の1月21日から22日にかけて

待ち構えていた上杉軍を 立川と分倍河原で 撃破しています

 

「立河原の戦い」と言われ、上杉側だけでも

2000人以上の死者が出たということです

 

そのころ、このへんで勢力を持っていたのが 

太田道灌が 村山に陣を敷いてにらめっこすることになる 大石氏です

 

八王子から秋川にかけて城を持ち、田無あたりまで領地にしていた

大勢力ですが 「立河原の戦い」では上杉方について 

大石重仲と大石房重が討ち死にしています。

 

無事 古河に落ち着き、古河公方となった足利成氏

関東の東と北を押さえて 上杉家と戦い続けました

 

太田道灌は それと対抗すべく 江戸城を作り

川越にも 河越城を作ります

 

そうしている間に、山内上杉重臣、長尾景信が1473年に死去すると

山内上杉顕定は、息子の長尾景春ではなく、

扱いやすい 弟の忠景を後継にしました

 

長尾景春は 面白くありません

山内上杉顕定は 人間的にもあまりできていない主君だったみたいで

1476年に長尾景春が反乱を起こすと 

武蔵、相模などで18の領主が呼応して挙兵しています

古河公方とも連携した 景春軍は 

当初、連戦連勝だったみたいです

 

太田道灌が 駿河から戻ってくるまでは。

 

そのころ道灌は 北条早雲との話し合いに行っていたんです

 

駿河から帰って来た道灌は 乱の鎮圧に乗り出し

豊嶋氏の石神井城、練馬城をはじめ 次々に攻め下していきます

 

そして、秋川の二宮城にたてこもる大石氏と

その後方、相模や津久井、甲斐などで抵抗する武士たちの鎮圧のため、

1478年(文明10年)に 武蔵国村山に着陣しています

 

 

その陣屋は どこでしょう?

 

伝承では真福寺周辺や いまの3小あたりではないかと

言われています

f:id:cafelegume:20190208024938j:plain

 

たしかに 3小のスペースはかなりの人数をまかなえそうですし

f:id:cafelegume:20190208025604j:plain

 

真福寺の南側斜面は

f:id:cafelegume:20190208025350j:plain

遠く 多摩丘陵を見ることができます

 

一方、大将山という説もあります

f:id:cafelegume:20190208030752j:plain

 

こちらも 秋川などがよく見えるのですが

f:id:cafelegume:20190208031034j:plain

 

山頂にスペースはないので 陣を張るとすると

f:id:cafelegume:20190208031450j:plain

麓の総合運動公園や 体育館の場所になりそうです

 

どっちだったのでしょうね