江戸街道の話 その二

江戸街道を考える上で、重要なことがふたつあります。

 

ひとつは 1590年に、徳川家康が江戸に入城し

江戸の町づくりや、大規模な城の造成が進められたこと です

 

 江戸の城や町づくりには たくさんの石や石灰が使われました

 

石は 主に伊豆の方から運んだみたいですが

石灰は 青梅から運ばれたのです。

 

この石灰は「八王子白土焼」と呼ばれ

秀吉、家康連合軍に敗れ、落城した八王子城の漆喰などにも使われていました

 

北条氏の残党であった佐藤、木崎氏らが 

青梅の奥に隠れ住み 細々と作っていたものを

多摩地方に赴任した代官 大久保長安が見出し 

幕府の「御用石灰」として 大量に作るよう命じたのです

 

かまどひとつで 一カ月かけて4500俵作れたそうですが

最初、3窯で始まった窯元は 年々増え続け

明暦の大火(1657年)のあとは 市価も10倍になって

1661年には35窯まで増えています

 

青梅の成木川、小木曽川沿いで作られた

(石灰はアク抜き用に 大量の水が必要でした)

大量の石灰は 青梅の新町あたりに集められ 江戸へと運ばれました

 

なので、このころの石灰輸送路は 「成木街道」とも呼ばれています

 

 

もうひとつは 1653年に玉川上水が開通したこと です

 

これを受けて 村山郷 岸村の小川九郎兵衛が

1656年(明暦2年)に 無人の青梅街道沿いに

小川新田を開発しています

玉川上水野火止用水の分岐点で、そこからの水をあてにしたのですが

箱根ヶ崎と田無の中間にある、石灰輸送の宿駅として願い出た関係で

「入村者は 馬を持って公儀の御役その他をつとめる」こととなりました。

 

一介の農民は 馬など持っていないので

入村者はみな 九郎兵衛から経済的援助を受け

その代わり 子孫の代まで 田一反につき米三升を収めるという

誓約書を書かされました

 

これが のちに百姓騒動へと発展していくのですが 

それはまた別の話

 

要は 岸村から小川新田までの道を含めて この時期に

江戸街道全体がいっそう整備された ということです

 

 

これは 岸村に伝わる江戸中期の村絵図です

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解説したものがこちら

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村の南側に 横線が5本あります。

書いてある文字は 上から

1本目 箱根ヶ崎

2本目 蛇掘 (残堀川)

3本目 三田領より江戸道

4本目 三田領より江戸道

5本目 伊奈道

 

この4本目の松の並木が書いてあるものが 今の江戸街道です

(ちなみに この松並木は18世紀後半以後の絵図にはありません。

邪魔になったのか、病気になってしまったのか 何があったのでしょうね)

 

なお、「三田領」というのは 青梅のことです

 

青梅市のホームページによると

戦国時代、羽村から奥多摩までの地域は 

平将門の末裔という三田一族に支配されていました

1560年から61年に 長尾景虎上杉謙信)が関東に出兵してきたとき

北条氏に反旗を翻して滅ぼされてしまうのですが

明治のころまで 青梅は「武州三田領」と呼ばれていた

ということです

 

 

 

参考資料

「絵図と写真で見る武蔵村山武蔵村山市教育委員会 2017

「市内に残る江戸時代の村絵図」武蔵村山市教育委員会 2003

「青梅街道」山本和加子 聚海書林 1984