太田道灌 その後の話

長尾景春が父、景信の後継に認められなかったことで

山内上杉顕定に反旗を翻したのは1476年です

 

太田道灌山内上杉顕定に味方して

村山に陣を構え 景春勢と戦いながら

関東南部を平定するのは 1478年ですが、

 

その後、道灌の人望が高まったことから

山内上杉顕定は、道灌の直接の主家

扇谷上杉定正と共謀して 1486年には

相模国糟屋(今の神奈川県伊勢原市)で

道灌を暗殺してしまいました

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これは、伊勢原市大慈寺に伝わる太田道灌の絵です

(市のホームページ いせはら文化財サイトから)

 

そこは定正の自分の屋敷で 道灌にお風呂を薦め、

湯上りの時に襲ったそうです

伊勢原市には 道灌の墓や家来たちの塚も残されています

 

道灌54歳の生涯でした

 

このあと、山内と扇谷の両上杉家は お互いにいがみ合って

1487年より抗争を始め(長享の乱

1505年まで えんえんと戦っています

 

1504年には また立河原(立川・国立)で一大決戦があり

勝った扇谷側だけで 2000人が戦死したと伝えられています

 

 このころは、鎌倉と河越城、越後などを結ぶ動線

狭山丘陵と交差しており、それぞれの軍勢がどの道を通ったのか

いろいろ考えてしまいますね

 

さて、上杉定正は1494年に 

荒川を渡る際、落馬して死んでしまい

道灌の亡霊に殺されたという話になっています

51歳の生涯でした

 

その後、山内上杉側が優勢になって

上杉顕定の方は、上杉家の内紛で越後まで攻め入り

上杉謙信の父親を追いやって 統治します

でも、強権的な性格で、国中の反発を買い

1510年に 敗走して自刃しています

享年は57歳でした

 

で、長尾景春は と言えば、この誰よりも長生きし

1514年 72歳の生涯をまっとうしています

 

 

 

武蔵野郷土史刊行会の『多摩の歴史 1』を読むと

田無は道灌のひ孫 太田康資の所領となっていて

二宮城にいた大石氏と道灌が和睦した後 太田氏に引き継がれたもの

ということになっています

 

でも、二宮城の大石氏の勢力は田無まであったのでしょうか?

本によると、そのころの武蔵野は 

なんにもない吹きっさらしの野原だったそうで

秋川から 馬を駆って遠出するのに

ちょうどいい距離だったそうです・・

 

たしかに、武蔵7党は 馬を調教する集団だった といわれていますが

さすがに田無は、練馬、石神井にいた

豊嶋氏の勢力範囲だったんじゃないかなあ・・