先日 カタクリを見に野山北公園に行ったとき
行く道路の途中に
「横田トンネル」がありました
(この辺一帯は、「中藤村」から一時期たもとを分かっていた 「横田村」のテリト
リーです)
このトンネルをくぐると、その先には さらにいくつものトンネルがあって
途中立ち入り禁止になってしまいますが、最終的に貯水池まで続いています。
これらはみな、昭和3年の10月から作られた 山口貯水池への作業路なんです。
計画自体は 明治の終わりから始まり、まず村山貯水池の建設が行われました
大正時代に羽村から導水路を引き、いろいろ資材も運ぶために
ほぼまっすぐな水道用道路が、この横田まで作られています
人力だけでなく トロッコなども使われたそうですが
砂利は重いので 青梅線→中央線→国分寺から西武線→東村山からの軽便鉄道 という
ルートで運んでいました。
昭和に入って
村山貯水池より奥の山口貯水池を作る際、砂利もこの水道道路を使って運ぼうというこ
とになり、
横田より先の トンネルが掘削され、道路には軌道が敷かれました。
昭和15年に 陸軍が「福生飛行場」を作り
飛行場からまっすぐ 右側の狭山丘陵に延びるこの道路を見て
米軍は、
横田のどこかに 陸軍の地下司令部があるにちがいない
と考えていたそうです
それで 基地の名前も「横田」になったとか・・
昭和20年4月2日と4日には 横田にある長円寺が空襲されています
これも 司令部横田説から行われたのでしょうか?
ただ、そのとき 長円寺にいたのは、赤坂から学童疎開で来ていた
3年生男子と、6年生の女子です
長円寺が破壊されてしまったので 夜中に真福寺に移動したみたいです
かなり過密な状況になったと思われます。
みんな どうやって暮らしたのでしょうね?
その真福寺にも 4日に時限爆弾が落とされたという記録があります・・
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今日の畑作業です
このエンドウの 支柱を作りました
でも 半分だけ。
残りは明日です