3日続けて 江戸街道の話です
昨日、18世紀前半にあった並木が
それ以後の絵図では なくなってしまった
という話をしましたが、
実は 幕府の「御用石灰」として 羽振りの良かった
青梅の「八王子石灰」が 18世紀以後にどんどん落ち目になっていったのです
最初の 商売敵は 享保(1716-1735)のころに売り出された
本所深川の「牡蠣殻石灰」で
佃島の囚人を使い 人件費も輸送費もほとんどかからないため
とっても安価で 人気があったそうです
その後、寛延(1748-1750)のころに
下野(栃木)の佐野で焼かれた「野洲石灰」が出回り
安永(1772-1780)のころには
上州(群馬)の「下仁田石灰」も入ってくるようになりました
栃木や群馬から日本橋まで 直接 船で運び込めたのです
陸送で金がかかる 成木村の石灰は 次第に衰亡していきます
千代田区史によると、
安政3年(1856)に江戸に入ってきた石灰の量は
牡蠣殻が28万3千俵、
野洲石灰が5万7千俵とあって
成木石灰は1万1千俵の5位となっています
斜陽になると 人の心もすさんでくるみたいで
成木村では騒動が絶えず(青梅市史史料集15)
物流の減った江戸街道は
人家のない 小川と箱根ヶ崎の間が 寂れてしまい
代わりに 狭山丘陵沿いと小川の間が結ばれて
今の青梅街道のルートがメインになっていきます
・・と、ここまで ほとんど山本和加子さんの
『青梅街道』聚海書林の受け売りでした
***************
そこを結んでいた川もあるだけでなく
江戸時代に新しい川を次々に掘削して 付け替えたりして
どんどん流路が変わっているのです
明治に入っての 足尾鉱毒事件も
これらの川の変遷に 大きな影響を与えていて
調べるとなかなか面白いのですが
これもまた 別な時に・・
***************
江戸街道についても きりがないので
とりあえず次回で まとめてしまいます