指田日記

私たちが武蔵村山市の伊奈平に越してきたころ、

近くには お医者さんが一軒もありませんでした

(歯医者さんは一軒ありました)

 

子どもたちが熱を出すと、

車に乗せて北へ行き、旧青梅街道の「大曲り」の手前にある

指田医院まで 連れて行ったものです

 

普通に連れていくと 番号札が80番とか90番とかになってしまうので

まず、あさイチで番号札を取りに行き、

家に帰って朝ご飯を食べてから 子どもたちを連れていく

という ズルいことをしていましたが

お昼近くなっても まだ何十人といる待合室を見て

病院の人たちは いったいいつお昼ご飯を食べているんだろう?

と、思っていました。

 

その指田医院は現在 手前にコンビニができて 庭木などもなくなり

外観からも 往時の古めかしさは消えてしまっています

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母屋側に残っている 門の横には

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市が建てた 立札が立っていました

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この『指田日記』というのは、中藤村の陰陽師だった指田摂津が

天保5年(1834)から明治4年(1871)までつけた日記?です

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全部で16冊あります

 

日々の天候、行事、慶弔、生業、火事や盗賊などの事件、来客などの記録のほかに

安政の大獄の時の封廻状の写しや

ペリーが持ってきたアメリカ大統領フィルモアの国書の写しなどもあって

(写した年代は不明)

単純に「日記」といいがたいところもある(解説)らしいのですが

江戸末期から明治初めにかけて 村山に暮らした人たちが

どんな日々を送っていたのかが ちょっぴりわかる貴重な資料であることは確かです。

 

 

ここ数日、体調がいまいちで 畑にも行っていないので 

この指田日記が 今の愛読書・・

 

あっ、現物は歯が立たないので

「指田日記の会」が長い年月をかけて調査、研究、編集した

現代語訳、注釈付きの こちらの本を読みました

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武蔵村山市が 文化財資料集の一環として

平成17年3月と(上巻)18年3月(下巻)に刊行したものです

 

なかなか 面白いのですが 江戸時代の暦がよくわかりません

 

たとえば、

天保6年7月19日 大根を蒔く。袷(あわせ)にて寒し

最初は、「えーっ このころは7月に大根をまいていたんだ」と思ったのですが

よく考えたら このころは旧暦ですよね

 

でも、天保6年には7月が2回もあるのです

天保6年 壬(うるう)7月12日 漬け菜を蒔く

 

今の暦でいうと

大根を9月に入ってまいたのだとしたら

漬け菜は9月の終わりか 10月初めということになります

 

当時はマルチもトンネルもなかったのですから

この漬け菜は なんでしょう?

小松菜かなあ

 

天保9年には 6月に大根をまいていたりするので

天保9年6月25日 平八を雇い大根を蒔く

 

このころの暦は 一か月くらい普通にずれています

それを調整するために うるう月を入れたんでしょうけど

いつ種をまくかとか 年間の作業計画はどうしたのかなあ?

 

やっぱり、

「大豆はトチの花が咲くころまく」とか

いろいろな言い伝えがあったのでしょうね・・

 

ほかの野菜はどうなっているのかなー

と、読み進めたのですが

大根と菜っ葉以外 全然出てきませんでした

 

出てくるのは

大麦、蕎麦、岡穂(おかぼ)、小麦、粟、稗などの穀類や

玉蜀黍、薩摩芋、小豆、荏(えごま)などばかりで それも

 

天保10年9月16日 金蔵・李左衛門を雇い畑を耕せしむ

天保10年9月20日 留蔵・亀次郎を雇い小麦を蒔かしむ

 

基本 人任せです

 

指田摂津にとっては 陰陽師としての仕事が忙しく

とても畑まで やっていられなかったみたいです

なんといっても、陰陽師の仕事の範囲は

今の指田医院以上ですもの

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このほかにも、雨ごいや 逆に晴れを望む儀式なども仕事でした。

刀剣の鑑定などもしていたみたいです

 

 

おまけ

 

江戸時代の暦は 月の巡りによっていたので

1か月は 最長でも30日です

なので、この時代には

31日生まれの人は一人もいません!

という へんなところに感心してしまいました