江戸街道のはなし その四 前編

今から およそ150年前 上野で戦争がありました

 

江戸幕府に忠誠を誓っていた家臣や

新撰組の残党?が 彰義隊を名乗り

上野から浅草に立てこもっていたのです

 

江戸幕府新撰組の影響が強かった 多摩地域や埼玉西部でも

中野で鎮圧された「仁義隊」の残党や

上野の「彰義隊」から分かれた一派を中心に「振武軍」が結成され 

3,400人の兵士が田無に 一カ月ほど宿営しました

 

ところが 5月12日になぜか 

「振武軍」は箱根ヶ崎に移動しているのです

田無にいて 単独で戦うと負けてしまうので

上野で事があれば すぐ駆けつけて側面攻撃する

という方針に切り替えたようです。

 

ところが 上野戦争は三日後の5月15日の朝に始まり

夕方には 終わってしまいました

 

「指田日記」によると

慶應4年5月12日 (1868年7月1日です)

箱根ヶ崎に仁義隊入る。三百人の風聞あり。雨、終日終夜止まず

5月13日 雨

5月14日 大雨

5月15日 朝雨。原山組中、神明拝殿により天気祭り、酒

5月16日 晴れる 

箱根ヶ崎に居りたる仁義隊の人々、昨夜の内に繰り出し江戸に行く

5月17日 雨。江戸合戦、浅草正義隊(彰義隊)の人、箱根ヶ崎に脱走

 

とあり、箱根ヶ崎の「振武軍」は 戦争が終わったことを知らぬまま

5月15日の夜に移動をはじめ

翌朝、田無の先まで行ったところで 知らせを聞いたようです

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                              武蔵村山市史より)

そこで「振武軍」は田無で 敗残兵の収容をした後 

17日に二手に分かれて 飯能を目指して退却しています

 

ふたたび指田日記

5月22日 雨。夜、官軍、扇町谷・飯能辺に入る

5月23日 朝より炮発の声数声、扇町谷より繰り出し、飯能の幷栁騒動す、

三ヶ寺焼亡、市中残らず焼失し官軍退陣す、脱走兵散乱

5月24日 官軍、江戸に帰る

 

追手は 北九州の各藩や岡山藩ほかと、川越、前橋の藩も動員されました

 

飯能での戦いは 23日未明に始まり 昼過ぎに終わっています

 

で、ここまで 長々と書いたのは

箱根ヶ崎に陣取った「振武軍」は、

5月15日夜に、絶対 江戸街道を使ったと思うのです

 

田無まで ほぼ一本道ですし

時間が勝負の時に 曲がりくねった山沿いの道を行くとは思えません

 

たぶん帰りも

狭山丘陵南回りの部隊は

江戸街道を使って 一目散に逃げたのではないでしょうか?

 

150年前のことなので

絶対そうだ とは言い切れませんけど

 

ふだん なんとなく通っているフツーの道が

江戸時代には 主要道だった と考えるのって

なんか 楽しいですよね