今から500年以上も前、
いえ、正確に言うと 太田道灌が来たかどうかはわかりません
太田道灌の軍が やってきたのはたしかですけど
そのころ、関東のあちこちで戦いがあって
太田道灌軍の主力は 横浜の小机城を攻めていたみたいなのです。
市史とか 物の本ではみな 「太田道灌 村山の陣」 として
本人が来たことになっていますし、
まあ、そのほうが盛り上がるので
ここでも、来たことにして話を進めます
まず、なんで 村山に? という話なんですが、
これが 話すと とっても長い話なんです
本当に複雑なので ここでは簡略化して話をすると・・
当時、室町時代の幕府は 鎌倉に足利家の血筋の者を置き
関東を治めさせていました(鎌倉公方)
実際には 有力な武将何人かが家臣となり、
実務をするしくみです(関東管領)
やがて、武将のうち 上杉家が実権を握るようになり、
しかも、上杉家の中でも争いがあって
山内上杉氏と扇谷上杉氏の2系統に絞られて行きました
扇谷上杉氏の重臣が太田氏です
実権を握られている鎌倉公方は 面白くないので
関東管領との争いが絶えず
1439年には 上杉氏が 鎌倉公方足利持氏を自害させ(永享の乱)
足利成氏は、このあと茨城の古河まで逃げるのですが その途中
翌1455年の1月21日から22日にかけて
待ち構えていた上杉軍を 立川と分倍河原で 撃破しています
「立河原の戦い」と言われ、上杉側だけでも
2000人以上の死者が出たということです
そのころ、このへんで勢力を持っていたのが
太田道灌が 村山に陣を敷いてにらめっこすることになる 大石氏です
八王子から秋川にかけて城を持ち、田無あたりまで領地にしていた
大勢力ですが 「立河原の戦い」では上杉方について
大石重仲と大石房重が討ち死にしています。
関東の東と北を押さえて 上杉家と戦い続けました
川越にも 河越城を作ります
そうしている間に、山内上杉の重臣、長尾景信が1473年に死去すると
扱いやすい 弟の忠景を後継にしました
長尾景春は 面白くありません
山内上杉顕定は 人間的にもあまりできていない主君だったみたいで
1476年に長尾景春が反乱を起こすと
武蔵、相模などで18の領主が呼応して挙兵しています
古河公方とも連携した 景春軍は
当初、連戦連勝だったみたいです
そのころ道灌は 北条早雲との話し合いに行っていたんです
駿河から帰って来た道灌は 乱の鎮圧に乗り出し
豊嶋氏の石神井城、練馬城をはじめ 次々に攻め下していきます
そして、秋川の二宮城にたてこもる大石氏と
その後方、相模や津久井、甲斐などで抵抗する武士たちの鎮圧のため、
1478年(文明10年)に 武蔵国村山に着陣しています
その陣屋は どこでしょう?
伝承では真福寺周辺や いまの3小あたりではないかと
言われています
たしかに 3小のスペースはかなりの人数をまかなえそうですし
真福寺の南側斜面は
遠く 多摩丘陵を見ることができます
一方、大将山という説もあります
こちらも 秋川などがよく見えるのですが
山頂にスペースはないので 陣を張るとすると
麓の総合運動公園や 体育館の場所になりそうです
どっちだったのでしょうね