伊奈海道のはなし その四

さて、伊奈海道はどこにあったのでしょう?

 

まず もう一度 岸村の絵図を見てみます

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一番下に 「伊奈道」という 赤い横線があります

 

最初、この道が伊奈海道だ! と思ったのですが

この道は 横に走っているし

以前に書いた「山口街道」別名「福生街道」がありません

 

そこで、おとなりの三ツ木村の絵図を見てみたら

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福生街道と交差する 東西の道がありました

江戸街道との間は、寛文・延宝の時代に御高入となっています。

 

寛文・延宝と言えば 菱川師宣が現れ

大和絵師としての地歩を固めていく時期です

 

まだ、日本の文化は上方が中心で、

江戸が、着実に足元を固めていく時になります

 

ついでに、斜めの道の下にある、武蔵野新田は

享保5年 1720年に殿ヶ谷分水が通水されて以後 作られています

(元文は享保の次の元号です)

 

 

この横道の南側は元禄ですから 近世の文化が江戸で

どんどん花開いていく、勢いのある時期になります

 

で、この横道が 岸村の絵図にある「伊奈道」だと思うのですが

福生(山口)街道と 村境で交差していますね 

 

ところが『指田日記』に載っていた地図だと

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この横道は 三ツ木と岸の境ではなく、殿ヶ谷村まで交差しません

 

すると、岸村の「伊奈道」は「福生街道」ということになってしまいます

どっちが正しいのでしょう?

 

今はなくなってしまった古道が もう一本あった

と考えると すっきりするのですが

 

江戸の終わりにあって、明治の初めに もう痕跡をとどめない道

というのは あまり現実的ではなさそうです

 

 

さて、指田日記の地図では 斜めの道が「伊奈街道」となっています

 

これを、あの「歴史的農業地図システム」の比較地図で見てみます

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すると、

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指田日記で「伊奈街道」とされた道は、今の「伊奈平公園通り」で、

岸村の絵図で「伊奈道」とされたのは 「山口街道」

もしくは、もう一本、失われた道がない限り 

山口街道を省略しての 今の「伊奈平中央通り」

ということがわかってきました

 

 

市史に こんな地図がありました 

岸村の江戸街道(D)の南を通っているのは

(E)の山口街道だけなので、やはり、これが「伊奈道」なのだと思います

山口街道自体、呼称は所沢街道だったり、平井街道、福生街道だったり

いろいろなので 五日市の伊奈方面に行く道である以上 

岸村にとっての「伊奈道」だったんじゃないでしょうか

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この地図、

今の市街地と比べられるので とってもわかりやすいのですが

伊奈平中央通りも もしかすると江戸時代からあった ぽい道なので

ちょっとかわいそうかも。

(少なくとも明治の時代の地図にはありますものね)

 

まあ、今でこそ 道の広さが 逆転して

伊奈平公園通りの方が 裏道みたいになっていますが

江戸時代には こっちの方が主要道だったんです

 

一応 昨日の「小字名」地図でも確認すると

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伊奈平中央通りは 「伊奈海道」の北のへりを通って

木瓜久保」の南端を通っていくみたいです

 

さて、次は実際に「伊奈街道」を歩いてみます