さて、伊奈海道はどこにあったのでしょう?
まず もう一度 岸村の絵図を見てみます
一番下に 「伊奈道」という 赤い横線があります
最初、この道が伊奈海道だ! と思ったのですが
この道は 横に走っているし
以前に書いた「山口街道」別名「福生街道」がありません
そこで、おとなりの三ツ木村の絵図を見てみたら
福生街道と交差する 東西の道がありました
江戸街道との間は、寛文・延宝の時代に御高入となっています。
寛文・延宝と言えば 菱川師宣が現れ
大和絵師としての地歩を固めていく時期です
まだ、日本の文化は上方が中心で、
江戸が、着実に足元を固めていく時になります
ついでに、斜めの道の下にある、武蔵野新田は
享保5年 1720年に殿ヶ谷分水が通水されて以後 作られています
この横道の南側は元禄ですから 近世の文化が江戸で
どんどん花開いていく、勢いのある時期になります
で、この横道が 岸村の絵図にある「伊奈道」だと思うのですが
福生(山口)街道と 村境で交差していますね
ところが『指田日記』に載っていた地図だと
この横道は 三ツ木と岸の境ではなく、殿ヶ谷村まで交差しません
すると、岸村の「伊奈道」は「福生街道」ということになってしまいます
どっちが正しいのでしょう?
今はなくなってしまった古道が もう一本あった
と考えると すっきりするのですが
江戸の終わりにあって、明治の初めに もう痕跡をとどめない道
というのは あまり現実的ではなさそうです
さて、指田日記の地図では 斜めの道が「伊奈街道」となっています
これを、あの「歴史的農業地図システム」の比較地図で見てみます
すると、
指田日記で「伊奈街道」とされた道は、今の「伊奈平公園通り」で、
岸村の絵図で「伊奈道」とされたのは 「山口街道」
もしくは、もう一本、失われた道がない限り
山口街道を省略しての 今の「伊奈平中央通り」
ということがわかってきました
市史に こんな地図がありました
岸村の江戸街道(D)の南を通っているのは
(E)の山口街道だけなので、やはり、これが「伊奈道」なのだと思います
山口街道自体、呼称は所沢街道だったり、平井街道、福生街道だったり
いろいろなので 五日市の伊奈方面に行く道である以上
岸村にとっての「伊奈道」だったんじゃないでしょうか
この地図、
今の市街地と比べられるので とってもわかりやすいのですが
伊奈平中央通りも もしかすると江戸時代からあった ぽい道なので
ちょっとかわいそうかも。
(少なくとも明治の時代の地図にはありますものね)
まあ、今でこそ 道の広さが 逆転して
伊奈平公園通りの方が 裏道みたいになっていますが
江戸時代には こっちの方が主要道だったんです
一応 昨日の「小字名」地図でも確認すると
伊奈平中央通りは 「伊奈海道」の北のへりを通って
「木瓜久保」の南端を通っていくみたいです
さて、次は実際に「伊奈街道」を歩いてみます