残堀川について その一

2020.1.31現在編集中の記事です

 

カフェのある 三ツ藤住宅の南を 残堀川が流れています。

 

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この川沿いでは ずっと昔の石器などが採取されており、

 

この近くでは 八小の校庭や ヤマダ電気の南側などが

「アタゴ松遺跡A地区~C地区」として ○○年に調査されました。

 

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発見された 出土品は それほど多くありません

っゃ。。などで

 

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たぶん 何千年か昔、狭山丘陵沿いに住んでいた人々

とくに 横田トンネルのある吉祥山周辺や

今の野山北公園周辺に住んでいた人たち(住居跡があります)が

狩場の拠点として 使っていたのではないでしょうか

 

何千年前の人たちは、このへんを なんて呼んでいたんでしょうね?

 

 

さて、この川沿いから見ると、三ツ藤住宅は高台にあります。

 

先日、カフェにいらっしゃった方が

うちのほうは昔 「さかした」って呼ばれていた

と、おっしゃっていました。

 

三ツ藤住宅は、「さかうえ」なんだそうです

 

 

 

そういえば、以前立川の栄町からいらっしゃった方も、

国分寺崖線の上にある けやき台団地側からは「かわぞこ」

と呼ばれていたって 言ってましたっけ

 

 

 

残堀川は イオンの南東の○○橋で

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南へと向きを変え、

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砂川一番と天王橋の間で玉川上水を超えていますが

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もとは もう少し東の方を流れていました。

 

その流れていた場所を推測できるのが この地図です

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アタゴ松、順礼塚と残堀の間に 空白地帯があるのです

 

違う地図で見ると

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赤いバツ印がカフェの場所で、その近くの

福生街道(山口街道)から南東側に 細い帯状の部分があるのがわかります

 

これは、実は 江戸時代に砂川村の管理地だった部分なんです

雨がいっぱい降ると 残堀川が氾濫してしまうので

土手を作ったり 底をさらったりと きっと管理上 

必要だったんですね

あるいは、雨の少ない時期に 水が外に流れないようにするのに

必要だったのかもしれません。

 

このままの行政区画のままだと、

武蔵村山の8小は、立川市の小学校になってしまうので、

どこかで、立川市あるいは砂川町とのやりとりが

あったのだと思います

 

スタンフォード大学の地図で見ると、

昭和ん年には

 

三ツ藤住宅の下、アルカディアの北側を通って金毘羅橋まで続く道、

三本榎から立川の西砂図書館北側を通る道、

伊奈街道と、伊奈平中央通りなどが

残堀川とまとめて交差する 複雑な場所が

旧日産の敷地内にあったことがわかります

 

この地図だと、残堀川は この交差点の先

向きを西に変えていますが

もとは まっすぐ流れていました

 

砂川新田は 江戸時代の初めに岸村の村野家が計画し

ピルグリムファーザーズのように

xxxx家が入植したのが始まりです

 

玉川上水はまだできていません

 

当然 まずは飲み水が確保できる場所に入植したはずです

 

ということで 最初の入植地は

残堀川が 五日市街道とぶつかる場所だったに違いありません

 

そこらへんが 一番低い地域になるので

井戸を掘っても ほかよりは浅く済むのです

三番の南あたりに 最初のまいまいず井戸があったそうです

 

「砂川」というくらいで、当時も、残堀川の水は

枯れてしまうことも あったようですが

入植者は 数軒ごとに井戸を掘って しのいだみたいです

 

地図

 

玉川上水ができるより古く、その後の名主となる砂川家や

流泉寺、阿豆佐味天神などが 砂川二番から四番にあり

おそらく その中心を、残堀川が流れていたのでは と推測し

次のような地図を作ってみました

 

高低差の地図

 

上砂町四丁目の畑に こんな看板が立っていました

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ここから先は 立川市役所から 国立の青柳方面に流れていったですって

 

いったい どういうルートだったのでしょう?