引又街道のはなし その三

先日 お伊勢の森まで書いた話の 続きを書く前に

 

そもそも なんで引又街道は できたのか?

を、書かないといけません

 

たぶん中世にも 引又まで続く細い道があったのではと、思いますが 

江戸時代に 物資がいろいろ動く 主要な道に変身したわけは

松平伊豆守信綱という人のおかげなんです

 

松平信綱寛永14-15年(1637-38)の島原の乱を鎮圧した功績で

川越藩主になった人です(天草四郎の首実検もしています)

 

川越という場所は 江戸城ができるまで

武蔵の国の中心ともいえる 重要な拠点でした。

 

河越城は 太田道真・道灌親子が1456-57年に築城したもので

 

長尾景春の乱の際には 1478年に太田道灌が 

武蔵村山に布陣しているのです

 

cafelegume.hatenablog.com

 

 

江戸幕府になってからも 川越は北の守りの意味も込めて 

酒井忠勝柳沢吉保など 老中、大老クラスが

代々配置される 重要な藩なのです

 

で、寛永16年1月 川越藩主になった老中、松平信綱は、

江戸との物流を重視し、川越街道の改修だけでなく

荒川に隣接して流れる新河岸川を改修し、船が通れるようにしました。

 

なんといっても前年 寛永15年に「川越の大火」があり

焼失した喜多院川越東照宮の再建を家光より命じられ

その資材を運ばないといけなかったのです

 

新河岸川には あちこちに船が着く河岸場が作られ、

その中でも 奥州街道(志木街道)と交差する 引又河岸

別格に賑わったようです。

 

青梅の石灰や 五日市の伊奈石の一部も 

引又河岸から江戸に運ばれた と言われているので

引又へと続くカフェの北側の道も 350年前は

それなりに賑わっていたのではないでしょうか

 

松平信綱は 玉川上水を開削させた老中としても知られています。

玉川兄弟が二度の開削に失敗すると、

川越藩士の安松金右衛門を呼んで設計に当たらせたとされ、

 

1653年に玉川上水が完成し、1654年に江戸市中への通水が始まると

翌1655年には 立川から分水を引いて

自分の領地まで 野火止用水を開削してしまう実力者です

 

川越藩主になった寛永16年の8月には 江戸城が焼失して

その再建の惣奉行になっていますし

慶安4年に家光が亡くなった時は なんで殉死しない!とブーイングの嵐に会い

明暦3年(1957)には 明暦の大火の対応に当たり

慶安の変承応の変も鎮圧したりと

65歳の人生は なかなか波乱に富んでいました

 

 

さて、全然話が変わって・・

「えーっ 引又街道の続きはー?」という方、

 

ごめんなさい

明日のお楽しみです

 

で、

 

今年はなぜか タマネギの生育がイマイチです

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もう70本くらい ひっこ抜いて

代わりにガーデンレタスをまいてあるのですけど

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また 10数本が ダメになっていました

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みんな 地際のところがやられてしまうのです

 

どうしようかと考えて パクチーをまくことにしました

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ガーデンレタスは他にもまいてあるので もう100穴もあるのです

 

パクチーなら 種もいっぱいあるし

タマネギより早く収穫できます

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でも、いつの種だかわからないので 一穴に2-30粒まきました。

 

ついでに大根やかぶの第2期生もまいておきました

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孫の ぬかみそ漬け用です

 

今日のテレビでもやっていましたが 

いま、若い人たちに ぬかみそはブームなんですね

 

みんな ぬかみそに名前まで付けていました

 

孫もつけているのでしょうか

 

今度 聞いてみよう ・・