太田道灌の話 その2

太田道灌が 村山に陣を敷いたのは

市史によると 文明10年(1478)3月ごろになっています

 

ただ、市史を何度読んでも、国語力がないのか

前後関係がよくわかりません 

 

整理すると

文明8年(1476)に始まった長尾景春の乱は

当初 こんな勢力関係でした

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青いところは ほとんどありません

道灌が造営した江戸城河越城岩槻城だけです

 

上杉側は 人気がなかったんですね

 

道灌は まず石神井城と練馬城の豊嶋氏を攻めます

河越にいる 父の道真と連携することが一番で

その間に敵がいたら まずいですものね

 

でも、これを攻め滅ぼすのに文明9年4月から

文明10年1月まで 7か月かかっています

 

時には負けて追いかけられ 

黒猫のお導き?で助かった ということで、

新宿の落合あたりに道灌が のちに黒猫神社を建てたとか

という 嘘かほんとかよくわからない話もあります

 

そのあと 河越の先へ進むと 埼玉の奥の方で景春軍と戦っています

 

その一方で 道灌・上杉の別動隊は

南多摩や、相模の城を 南から攻め上がっていました

 

強力だったのは小机城で、豊嶋氏の残党も合流しています

 

景春も 小机城の応援のため 二宮城の勢力を増やしており

それと対峙する形で 道灌は村山に陣を構えたのです

 

陣を構えた3月には 埼玉の坂戸や羽生で戦いがあり

景春を 熊谷まで敗走させることに成功します

 

で、このあと

景春と切り離された 南側の勢力は 一気に攻め落とされ

(小机城は文明10年4月10日に落城しています)

最後は奥三保(おくさんぼう 津久井、相模湖など)で

残党狩りが行われています

 

二宮城がいつ降伏したかは よくわかりませんし

もともと、道灌軍がどこに陣を構えたかも不明ですが

 

真福寺リーフレットによると

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道灌軍は 真福寺から山口街道を通って 

二宮まで攻めていったことになっています

 

この 「山口街道」というのは

カフェのある 三ツ藤住宅の北側を通っている道です

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一中や オザム、西武信用金庫、郵便局などがある通りで

実際に そうだとすると

今まで何度か話してきた「江戸街道」より 

ずっと古くからある道なんですね

 

で、実際に歩いてみましたが

 

その話は また明日