シアトルのチャイナタウンがある場所には
昔、多くの日系人が住んでいたそうです。
最盛期には8000人以上が暮らしていたみたい
これが その頃の日本人町中心部の地図
さらに真ん中を拡大してみると
左から6番目にPanama Hotelという名称があります
(左の横に書かれている文字の一番上は
Hashidate Bath 橋立湯で
多いときはこの地区に9つの銭湯があったそうです。10という説も)
パナマホテルは 1910年に建てられました (これは1937年の写真)
シアトルでは日系の新聞も 数紙発行されていたみたいで
これはそのうちのひとつ The North American Timesの社員たちでしょうか
このシアトルの日本人町は ある日突然終わりを告げます
日本軍が真珠湾を奇襲した翌年 こんな命令が
すべての日本人に対して出されたのです
日本語版は こんなかんじで
すべての日系人が市民権を剥奪され、5月1日までに
アイダホにある強制収容所に隔離されることになったのです。
持っていけるものは 身の回り品を詰めたトランク一個だけ。
北米全体では12万人が アイダホ他12か所の強制収容所に送られました。
車や土地、建物などは安値で売りさばくことになり
持っていけない大事なものは このパナマホテルの地下室や
親しい白人系の家などに預かってもらったものの
戦争が終わって戻ってきたときには
建物の多くは もうほかの人が住んでいるか
廃墟になっていたのです
しかも、1952年まで日系人はアメリカ国民として認めてもらえなかったので
暮らしていくこと自体がとても大変でした
このパナマホテルのオーナー堀隆氏とその家族も
強制収容所に連れていかれたのですが
堀氏は ホテルを売らずに管理してくれる会社を雇ったので
そのまま戻ることができました
地下室の荷物は 引き上げてくる人たちと再会し
引き取られていきます。
それでも、8000点以上の引き取り手が現れない荷物が残り、
堀氏は 80年代になってホテルを売却する際
全部処分してしまうことにしました。
ところが 売却の話を聞きつけた白人のジャン‐ジョンソン氏が
誰かの手にわたって この歴史的な場所が取り壊されてしまうことを危惧し
10か月間通いつめ、ついに売却の承諾を得て、
それから40年近く ホテルを営業しながら
日系人の歴史の博物館的な役割を担うという場所になっています
字ばかりで長くなったので 続きは明日にします