武蔵村山の 小学校の始まり その2

明治5年、学制制度が定められ

日本全国で 小学校が作られていきました

 

武蔵村山では、明治6年に

不二学舎(中藤村)、吉祥学舎(横田村)、慈山学舎(三ツ木村)が、

 明治7年には小山学舎(岸村)が作られています

 

というか、それまで すでに寺子屋として存在していたものを

学舎として整備し 届け出た というほうが正確ですね

 

 

そのころの不二学舎のカリキュラム進捗俵があります

 

国に 届け出るにあたって

在籍している生徒たちが どの程度 習熟しているかを

一覧表にしたものですが

 

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左が男子で、右が女子です

 

生徒数は男子は55、 女子は15、かなり差がありますよね

 

しかも 教わる内容が、全然違うことが すぐわかります

 

右の方には、福沢諭吉の「世界国尽」もなく

ひたすら「女今川」とか「女小学」とか

「女消息」とか「女大学」とか

「女はこうあるべき」みたいな 女の子向け訓導書?がメインです

 

 

いまでも 日本のあちこちにはびこっている

男尊女卑的な この価値観については、

また 別な場所で触れることにして

 

ここでは その「女大学」の中身

というより、文字に注目です

 

いろいろな版はありますが、いちばん読みやすそうなものでも

こんなかんじなのです  国会図書館のデジタルコレクションから

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何が書かれているかというと

一、 夫(それ)女子盤(は)成長し亭(て) 他人乃(の)家へ行、舅 姑

耳(に)仕へ留(る)毛(も)のなれ盤(ば)

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男子よ利(り)も親の教え 緩(ゆるがせ)に春(す)べ可(か)らず

父母 寵愛し天(て) 恣(ほしいまま)に 育てぬ連(れ)盤(ば) 夫の家に行て

かなら徒(づ) 気ずゐ尓(に)て 夫に疎まれ 又は

舅能(の)をしえ 正しければ 堪へが多(た)く思ひ・・

 

というようなことが えんえん書いてあるのですが、

よくわかりません

 

ともかく、このころの子どもたちは こんな字で勉強をしていたのです。

それだけでも、すごいです!

 

いまは、インターネットで現代語訳も出てくるので

とりあえず何の字をくずしたものかは、わかります えへっ

 

でも、

このころは たとえば「あ」を書くとき、

阿、亜、安、愛、悪など 気分で どの字を使ってもよく

しかも、さまざまな くずし字があったのです

 

こうした「変体がな」の代表的なものや合字などの

バリエーションを考えると、このころの子どもたちは

1000種くらいのパターンを覚えないといけなかったんですね

 

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大人でも なかなか覚えきれないので

 

明治の初めに ローマ字運動がおこったのも

わかるような気がします 

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これは、明治21年に 羅馬字会が印刷し ローマ字の普及を目指して

全国の小学校に配った絵本『Wampaku monogatari』 の2巻目です

・・国会図書館のデジタルコレクションからコピー

 

中身は こんなかんじで

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この ローマ字は 結局普及しませんでしたが・・

 

(あれっ、戦後も国語の時間に ローマ字を習わされたりしていたので

一定 普及したといえるのかなあ?)

 

ひらがなが 複雑だった分、代わりにカタカナが普及しました

 

教科書をカタカナにしたり、公の通達をカタカナにしたり・・

 

法律なんか ごく最近までカタカナのものがありましたもんね