江戸街道のはなし その四 後編

150年前 江戸街道はまっすぐでした

 

分断されたのは1960年前後で、

横田基地の拡張や

日産自動車工場の建設によるものです

 

日産は撤退しましたが

一度曲がってしまった道は 元に戻らず

その一で書いたような事態になっています

 


そこで 今回は もしまっすぐな道があったとしたら・・

を 考えてみました

 

まず、江戸街道を西側から来ると

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道が左側にカーブしていきます

 

カーブの手前の右側には 本来のまっすぐな道があって

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 歩いていくと つきあたりにイオンが見えてきます

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角のうどんやさんを過ぎて 道を渡ると イオンのバス停にぶつかり

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そのまま まっすぐ行ったとしたら

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イオンのサウスコート西入口周辺につきあたります

 

 

東側から攻めてみると

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榎の交差点から 江戸街道本来のまっすぐな道が続いていて

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つきあたりがイオンです

 

この道は 村山病院のところで途切れてしまいますが

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このまま何もないものとして 歩いたとすると

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どうやら イオンのサウスコート東入口あたりになりそうです

 

一応 地図上に、いままで 説明してきた道を黒く塗ってみました

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間を 線でつなげてみると

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やはり、「江戸街道」は エレベーターのある西入口から入って

薬売り場をつっきり、サービスカウンターの北側を通って 

おそうざいコーナーのある東入口へと抜けていくみたいです。

 

いまから150年前の夜

たくさんの武士たちが

この西入口を入って 東入口から出ていったのだと思うと

 

なんか ふしぎな気分になりますね

 

 

江戸街道のはなし その四 前編

今から およそ150年前 上野で戦争がありました

 

江戸幕府に忠誠を誓っていた家臣や

新撰組の残党?が 彰義隊を名乗り

上野から浅草に立てこもっていたのです

 

江戸幕府新撰組の影響が強かった 多摩地域や埼玉西部でも

中野で鎮圧された「仁義隊」の残党や

上野の「彰義隊」から分かれた一派を中心に「振武軍」が結成され 

3,400人の兵士が田無に 一カ月ほど宿営しました

 

ところが 5月12日になぜか 

「振武軍」は箱根ヶ崎に移動しているのです

田無にいて 単独で戦うと負けてしまうので

上野で事があれば すぐ駆けつけて側面攻撃する

という方針に切り替えたようです。

 

ところが 上野戦争は三日後の5月15日の朝に始まり

夕方には 終わってしまいました

 

「指田日記」によると

慶應4年5月12日 (1868年7月1日です)

箱根ヶ崎に仁義隊入る。三百人の風聞あり。雨、終日終夜止まず

5月13日 雨

5月14日 大雨

5月15日 朝雨。原山組中、神明拝殿により天気祭り、酒

5月16日 晴れる 

箱根ヶ崎に居りたる仁義隊の人々、昨夜の内に繰り出し江戸に行く

5月17日 雨。江戸合戦、浅草正義隊(彰義隊)の人、箱根ヶ崎に脱走

 

とあり、箱根ヶ崎の「振武軍」は 戦争が終わったことを知らぬまま

5月15日の夜に移動をはじめ

翌朝、田無の先まで行ったところで 知らせを聞いたようです

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                              武蔵村山市史より)

そこで「振武軍」は田無で 敗残兵の収容をした後 

17日に二手に分かれて 飯能を目指して退却しています

 

ふたたび指田日記

5月22日 雨。夜、官軍、扇町谷・飯能辺に入る

5月23日 朝より炮発の声数声、扇町谷より繰り出し、飯能の幷栁騒動す、

三ヶ寺焼亡、市中残らず焼失し官軍退陣す、脱走兵散乱

5月24日 官軍、江戸に帰る

 

追手は 北九州の各藩や岡山藩ほかと、川越、前橋の藩も動員されました

 

飯能での戦いは 23日未明に始まり 昼過ぎに終わっています

 

で、ここまで 長々と書いたのは

箱根ヶ崎に陣取った「振武軍」は、

5月15日夜に、絶対 江戸街道を使ったと思うのです

 

田無まで ほぼ一本道ですし

時間が勝負の時に 曲がりくねった山沿いの道を行くとは思えません

 

たぶん帰りも

狭山丘陵南回りの部隊は

江戸街道を使って 一目散に逃げたのではないでしょうか?

 

150年前のことなので

絶対そうだ とは言い切れませんけど

 

ふだん なんとなく通っているフツーの道が

江戸時代には 主要道だった と考えるのって

なんか 楽しいですよね

 

 

指田日記

私たちが武蔵村山市の伊奈平に越してきたころ、

近くには お医者さんが一軒もありませんでした

(歯医者さんは一軒ありました)

 

子どもたちが熱を出すと、

車に乗せて北へ行き、旧青梅街道の「大曲り」の手前にある

指田医院まで 連れて行ったものです

 

普通に連れていくと 番号札が80番とか90番とかになってしまうので

まず、あさイチで番号札を取りに行き、

家に帰って朝ご飯を食べてから 子どもたちを連れていく

という ズルいことをしていましたが

お昼近くなっても まだ何十人といる待合室を見て

病院の人たちは いったいいつお昼ご飯を食べているんだろう?

と、思っていました。

 

その指田医院は現在 手前にコンビニができて 庭木などもなくなり

外観からも 往時の古めかしさは消えてしまっています

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母屋側に残っている 門の横には

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市が建てた 立札が立っていました

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この『指田日記』というのは、中藤村の陰陽師だった指田摂津が

天保5年(1834)から明治4年(1871)までつけた日記?です

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全部で16冊あります

 

日々の天候、行事、慶弔、生業、火事や盗賊などの事件、来客などの記録のほかに

安政の大獄の時の封廻状の写しや

ペリーが持ってきたアメリカ大統領フィルモアの国書の写しなどもあって

(写した年代は不明)

単純に「日記」といいがたいところもある(解説)らしいのですが

江戸末期から明治初めにかけて 村山に暮らした人たちが

どんな日々を送っていたのかが ちょっぴりわかる貴重な資料であることは確かです。

 

 

ここ数日、体調がいまいちで 畑にも行っていないので 

この指田日記が 今の愛読書・・

 

あっ、現物は歯が立たないので

「指田日記の会」が長い年月をかけて調査、研究、編集した

現代語訳、注釈付きの こちらの本を読みました

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武蔵村山市が 文化財資料集の一環として

平成17年3月と(上巻)18年3月(下巻)に刊行したものです

 

なかなか 面白いのですが 江戸時代の暦がよくわかりません

 

たとえば、

天保6年7月19日 大根を蒔く。袷(あわせ)にて寒し

最初は、「えーっ このころは7月に大根をまいていたんだ」と思ったのですが

よく考えたら このころは旧暦ですよね

 

でも、天保6年には7月が2回もあるのです

天保6年 壬(うるう)7月12日 漬け菜を蒔く

 

今の暦でいうと

大根を9月に入ってまいたのだとしたら

漬け菜は9月の終わりか 10月初めということになります

 

当時はマルチもトンネルもなかったのですから

この漬け菜は なんでしょう?

小松菜かなあ

 

天保9年には 6月に大根をまいていたりするので

天保9年6月25日 平八を雇い大根を蒔く

 

このころの暦は 一か月くらい普通にずれています

それを調整するために うるう月を入れたんでしょうけど

いつ種をまくかとか 年間の作業計画はどうしたのかなあ?

 

やっぱり、

「大豆はトチの花が咲くころまく」とか

いろいろな言い伝えがあったのでしょうね・・

 

ほかの野菜はどうなっているのかなー

と、読み進めたのですが

大根と菜っ葉以外 全然出てきませんでした

 

出てくるのは

大麦、蕎麦、岡穂(おかぼ)、小麦、粟、稗などの穀類や

玉蜀黍、薩摩芋、小豆、荏(えごま)などばかりで それも

 

天保10年9月16日 金蔵・李左衛門を雇い畑を耕せしむ

天保10年9月20日 留蔵・亀次郎を雇い小麦を蒔かしむ

 

基本 人任せです

 

指田摂津にとっては 陰陽師としての仕事が忙しく

とても畑まで やっていられなかったみたいです

なんといっても、陰陽師の仕事の範囲は

今の指田医院以上ですもの

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このほかにも、雨ごいや 逆に晴れを望む儀式なども仕事でした。

刀剣の鑑定などもしていたみたいです

 

 

おまけ

 

江戸時代の暦は 月の巡りによっていたので

1か月は 最長でも30日です

なので、この時代には

31日生まれの人は一人もいません!

という へんなところに感心してしまいました

今年の作付け計画

今日は 暖かかったですね

風もなく 畑日和の一日でした

 

 

今朝の新聞に

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春の畑の 始まりを感じさせるチラシが入っていて

 

普通だと ウキウキと園芸コーナーを覗きに行くか

畑に行くとか するのですけど

 

今日は なんか あまり調子がよくありません

担当のインフル?が こちらにもうつってきたのかもしれません

 

 

 

そこで、今日は一日 自重して

家でゴロゴロしていたのですが

 

 

ゴロゴロしていると・・ 退屈です

 

 

 

ということで、今日は畑の作付け計画・・

を作る前の データ整理を始めることにしました

 

まずは 今ある種を全部広げて

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有効期限が2016年までのものは 

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思い切って 全部捨ててしまいました

 

 

次に 足りない種を調べて

どのくらい買うか と

いつ、どこに どのくらいまくか を

決めればいいのですけど

 

今日は 頭が働かないので 

「また今度」

です

 

だって いいかげんなデータになったら困りますもん

 (どこかの国の統計みたいに)

 

 

今日の歩数は152歩でした・・

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明日もお休みします

店主の熱は38度3分あり、体中が痛いということです

 

なので、明日の営業もおやすみします

 

 

その連絡を流したら

 

「うちの職場でもインフルで いま3人休んでいます」

 

といった反響がありました

 

店主も 先週から急に患者が増え始めた 

インフルエンザなのかもしれません

 

 

インフルエンザだと 治るまで4-5日はかかるので

一応、今週の予約は 日曜日までキャンセルしました

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今朝、起きたら

担当が考えていたメニューのメモが テーブルの上にあり

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消しゴムだけ 床の上にありました

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玄関には コルクの栓も転がっていて

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うちのネコたち、 夜中にいろいろしていたみたいです

 

まあ、元気なことは いいことですよね・・

 

 

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担当のほうは 今、食欲もまったくありません

 

昨日収穫した 10人分くらいの食材や

 

今週のスウィーツ

黄桃のレアチーズケーキ は、

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いったい誰が食べるのでしょう???

 

 

おはなしだと 

「ついでにペロリ」とか「おなかのかわ」とか「ふとっちょねこ」とか

ネコたちが (にんげんもまるごと)

ペロリと たいらげてくれるのですけど・・

 

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あいにく この子たちは おはなしと違って

カリカリの ペットフード以外は 食べてくれません 

 

(ときどき にんげんには近寄って来て 喉を鳴らしながら

ゴロゴロゴロガブッ!とは しています・・)

寒野菜のベストシーズンです

昨日は「大寒」で、いろいろなお店が

大寒」を売りにした あの手この手のセールをしていました

 

ならば うちのカフェも

野菜のサラダ」ほか、

」を売りにしたメニューが いいかしらん

 

ということで さっそく畑に行きました

  

寒野菜の収穫です・・

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これは 紫カリフラワーの茎だけ。食べられません

 

葉っぱは みんな

 

カリフラワーの黄色と 

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カリフローレ

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の掛け布団になっています

(撮影のため というか、収穫のため 葉っぱははずしてあります)

 

レタスに

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ケール

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ブロッコリー

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(上のほうの葉っぱは ヒヨドリに食べられています)

 

チコリー

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ザーサイ

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ほうれんそう

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水菜

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ほかに 寒大根や 寒ニンジンや 寒ルッコラ

 

などを 収穫して 帰ってきました!!

 

明日は どんなメニューになるでしょう・・

 

ワクワク

 

 

江戸街道のはなし その三

3日続けて 江戸街道の話です

 

昨日、18世紀前半にあった並木が 

それ以後の絵図では なくなってしまった

という話をしましたが、

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実は 幕府の「御用石灰」として 羽振りの良かった

青梅の「八王子石灰」が 18世紀以後にどんどん落ち目になっていったのです

 

最初の 商売敵は 享保(1716-1735)のころに売り出された

本所深川の「牡蠣殻石灰」で

佃島の囚人を使い 人件費も輸送費もほとんどかからないため

とっても安価で 人気があったそうです

 

その後、寛延(1748-1750)のころに

下野(栃木)の佐野で焼かれた「野洲石灰」が出回り

 

安永(1772-1780)のころには

上州(群馬)の「下仁田石灰」も入ってくるようになりました

 

そのころは 利根川東京湾に流れ込んでいたので

栃木や群馬から日本橋まで 直接 船で運び込めたのです

 

陸送で金がかかる 成木村の石灰は 次第に衰亡していきます

 

千代田区史によると、

安政3年(1856)に江戸に入ってきた石灰の量は 

牡蠣殻が28万3千俵、

野洲石灰が5万7千俵とあって

成木石灰は1万1千俵の5位となっています

 

斜陽になると 人の心もすさんでくるみたいで

成木村では騒動が絶えず(青梅市史史料集15)

 

物流の減った江戸街道は 

人家のない 小川と箱根ヶ崎の間が 寂れてしまい

代わりに 狭山丘陵沿いと小川の間が結ばれて

今の青梅街道のルートがメインになっていきます

 

 

・・と、ここまで ほとんど山本和加子さんの

『青梅街道』聚海書林の受け売りでした

 

 

***************

 

 

隅田川、荒川、江戸川、利根川の変遷は とても複雑です

隅田川、元荒川、古江戸川、古利根川の流れがあり、

そこを結んでいた川もあるだけでなく 

江戸時代に新しい川を次々に掘削して 付け替えたりして

どんどん流路が変わっているのです

 

天明3年(1783年)の浅間山大噴火や

明治に入っての 足尾鉱毒事件も 

これらの川の変遷に 大きな影響を与えていて

調べるとなかなか面白いのですが 

これもまた 別な時に・・

 

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江戸街道についても きりがないので

とりあえず次回で まとめてしまいます

 

江戸街道の話 その二

江戸街道を考える上で、重要なことがふたつあります。

 

ひとつは 1590年に、徳川家康が江戸に入城し

江戸の町づくりや、大規模な城の造成が進められたこと です

 

 江戸の城や町づくりには たくさんの石や石灰が使われました

 

石は 主に伊豆の方から運んだみたいですが

石灰は 青梅から運ばれたのです。

 

この石灰は「八王子白土焼」と呼ばれ

秀吉、家康連合軍に敗れ、落城した八王子城の漆喰などにも使われていました

 

北条氏の残党であった佐藤、木崎氏らが 

青梅の奥に隠れ住み 細々と作っていたものを

多摩地方に赴任した代官 大久保長安が見出し 

幕府の「御用石灰」として 大量に作るよう命じたのです

 

かまどひとつで 一カ月かけて4500俵作れたそうですが

最初、3窯で始まった窯元は 年々増え続け

明暦の大火(1657年)のあとは 市価も10倍になって

1661年には35窯まで増えています

 

青梅の成木川、小木曽川沿いで作られた

(石灰はアク抜き用に 大量の水が必要でした)

大量の石灰は 青梅の新町あたりに集められ 江戸へと運ばれました

 

なので、このころの石灰輸送路は 「成木街道」とも呼ばれています

 

 

もうひとつは 1653年に玉川上水が開通したこと です

 

これを受けて 村山郷 岸村の小川九郎兵衛が

1656年(明暦2年)に 無人の青梅街道沿いに

小川新田を開発しています

玉川上水野火止用水の分岐点で、そこからの水をあてにしたのですが

箱根ヶ崎と田無の中間にある、石灰輸送の宿駅として願い出た関係で

「入村者は 馬を持って公儀の御役その他をつとめる」こととなりました。

 

一介の農民は 馬など持っていないので

入村者はみな 九郎兵衛から経済的援助を受け

その代わり 子孫の代まで 田一反につき米三升を収めるという

誓約書を書かされました

 

これが のちに百姓騒動へと発展していくのですが 

それはまた別の話

 

要は 岸村から小川新田までの道を含めて この時期に

江戸街道全体がいっそう整備された ということです

 

 

これは 岸村に伝わる江戸中期の村絵図です

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解説したものがこちら

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村の南側に 横線が5本あります。

書いてある文字は 上から

1本目 箱根ヶ崎

2本目 蛇掘 (残堀川)

3本目 三田領より江戸道

4本目 三田領より江戸道

5本目 伊奈道

 

この4本目の松の並木が書いてあるものが 今の江戸街道です

(ちなみに この松並木は18世紀後半以後の絵図にはありません。

邪魔になったのか、病気になってしまったのか 何があったのでしょうね)

 

なお、「三田領」というのは 青梅のことです

 

青梅市のホームページによると

戦国時代、羽村から奥多摩までの地域は 

平将門の末裔という三田一族に支配されていました

1560年から61年に 長尾景虎上杉謙信)が関東に出兵してきたとき

北条氏に反旗を翻して滅ぼされてしまうのですが

明治のころまで 青梅は「武州三田領」と呼ばれていた

ということです

 

 

 

参考資料

「絵図と写真で見る武蔵村山武蔵村山市教育委員会 2017

「市内に残る江戸時代の村絵図」武蔵村山市教育委員会 2003

「青梅街道」山本和加子 聚海書林 1984

 

 

 

 

 

江戸街道の話 その一

今日は 村山に越してきて

ずっと気になっていた「江戸街道」の話です

 

それまで 「五日市街道」や「青梅街道」は知っていたのですけど

子どもたちを保育園に送り迎えする道に「江戸街道」という標識があり

これはいったいなんだろう? とずっと思っていました

 

調べ出したら 奥が深くて

生半可な知識では とても太刀打ちできないのですけど

とりあえず、わかったことだけご報告です

 

 

まず、

 

自宅と カフェとの間にある この茶色に塗った道が

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江戸街道です

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(これは西松屋の前にある標識)

 

東側は Ⓐ地点で、砂川三番から来る通りにぶつかり

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400メートル南に行った Ⓑ地点から

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また江戸街道が始まっています

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この道は 東大和市に入ると「桜街道」と名前を変え

さらに西武線東大和市駅で 「青梅街道」と名前を変えます

 

えっ、青梅街道に合流しただけじゃないの? と思われるかもしれませんが

簡単な図を書いてみると 江戸街道は

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田無まで ほぼ一直線の道なのです

どう考えても 江戸街道がメインで 青梅街道の方が 合流していますよね

 

 

最初の図で ⒶからⒷまで 段差ができてしまったのは

日産(当時はプリンス)の村山工場が 

1961年から62年にかけて 道をぶった切ってしまったからです

 

テストコースを作るのに 一定の距離が必要だったためらしいですが

 

当時、企業の誘致は 町をあげての悲願だったので

街道を迂回させることなんて たいしたことではありません

 

たしか 残堀川も動かしてしまったはずなのですけど

その資料は見つからないので 今回はパスです

 

 

で、江戸街道の西側なのですが・・

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こちらも、IHI(旧石川島播磨重工業)の先で

横田基地によって 寸断されています

 

羽村側には 「江戸街道公園」があり、青梅新町あたりまで

江戸街道が伸びているのが 確認できます

 

 

 

いまは 新青梅街道が 青梅方面に行く主要路ですけど

これが開通したのは昭和40年代

カフェのある 三ツ藤住宅ができるのと同じころです

 

ですから、江戸や明治、大正のころは

この江戸街道 もっとずっと大事な道だったのではないでしょうか

 

そこで次回は 昔の「江戸街道」について

もう少し 書いてみたいと思います