とっても 穏やかなお正月です
家族と一緒に
朝から箱根駅伝を見て そのまま正月番組を見続け
ずっと おいしいものを食べ続けて(飲み続けて)
お風呂に入って そのまま一日が終わるという・・
こういう 何でもない時間が 「幸せ」なんですね
で、今日は 突然 武蔵村山の小学校のお話です
先日 空掘川沿いの ボーリングのピンを紹介しましたが
この像の北側の山 というか 丘に
横龍山吉祥院というお寺があるのです
江戸時代の初めごろに 長圓寺から分かれた寺らしく
江戸の末期には 石段を上った正面の 赤い屋根の建物で
寺子屋が開かれていました
明治5年の学制制度の後の書類に、吉祥学舎という名が残されており
ここが「村山第一小学校発祥の地」とされています
なので、武蔵村山の小学校の始まりは この場所からと
思ったのですが ことはそう単純ではありませんでした
ややこしいのは、明治5年のころ 村山は
中藤村、横田村、三ツ木村、岸村などに分かれていたんですね
それぞれに寺子屋もあって 明治5年以後
一斉に学校を作っているんです
その系統図がこちら
これは、武蔵村山郷土の会が平成14年に出した
『義務教育のあゆみ』という冊子からのコピーですが
横田村の「吉祥学舎」は 横に12月7日とあります
そのとなり 三ツ木村の「慈山学舎」のほうは
7月15日で 横田村より先です
そして、中藤村の「不二学舎」は 日付はありませんが
どうも4つの村の中では 一番古いっぽいのです
しかも、明治23年には
一度 現3小の場所に「扶桑小学校」として
横田と中藤が合併してしまうのですから
始まりという意味での「一小」は 実は3小の方かもしれません
まあ、現1小の場所に「日吉小学校」ができるのは
「扶桑小学校」より5年も後ですから
敷地だけで考えると たしかに3小の方が古いですよね
上の写真の「村山第一小学校発祥の地」と同じ立て札が
「一」を「二」と「三」に変えて
「不二学舎」「慈山学舎」の場所に立っているそうです
今度 探しに行って見ます