引又街道の話 その一です

最近、街道の話ばかりですが、農閑期だと思って

しょうがないなと お付き合いください・・あと、もうちょっとです

 

 

村山では、

縦の道(南北の道)は中世、

横の道(東西の道)は近世、

とよく言われていたそうです

 

これは 岸村の延享二年(1745)の絵図です

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模式図がこちらで 横の道は

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一番上が箱根ヶ崎道、今の旧青梅街道です

その下の線は残堀川で さらにその下に

三田領より江戸道と書かれている道が2本あります

(一番下の伊奈道は 今度説明します)

 

松並木のある 下の方の江戸道は いままで何回かに分けて

紹介してきた「江戸街道」です。

その北の江戸道は 残堀川とぶつかったところで終わっていますが

ここは、今の武蔵村山高校の北側に位置し(富士見橋)

その先は三ツ木村になってしまうため 略されたみたいです

 

この上の江戸道は「引又街道」とも呼ばれています

ずっと東に続き、東大和、東村山、清瀬を通って

志木市で、荒川支流の新河岸川、引又までつながっているのです

 

 

 

さて、この二つの江戸道、どっちが先にあったのでしょうか?

 

南側の道は 江戸に石灰を運ぶために

大久保長安が17世紀初頭に作らせた 直線的な道です

まわりに人家はなく、ほとんど原野で 

盗賊がたくさん出た といいます

 

対して北側は 今の新青梅街道の位置に沿いながら

畑の中を くねくねと曲がって続いています

いわば、人間が自然に歩くことで できた道です

 

畑なので、少しは見通しがいいし 昼間はそれなりに人目もあるので

南の道よりは 安心感があったのでは と思いますが

問題は このへんが畑になったのは どうも徳川以後みたいなのです

 

中世、太田道灌の時代には 村山の人々は

今の旧青梅街道より奥の山沿いに暮らしていて

旧青梅街道自体が「根通り」と呼ばれていました

 

そのあと、北条氏の支配下になり

北条氏は新規開墾を奨励していますが

それは あくまで水田に限られていました

 

徳川の時代になって 家康が検地を行い

新田開発(畑も含む)に報奨金をつけて奨励するようになると

村の人々は 旧青梅街道の南側を開墾するようになり

それに飽き足りない人々が 外に乗り出していくのですね

 

岸村からは 17世紀はじめに村野家が砂川の開発へ 

その後 玉川上水が開通した1654年以後に

小川九郎兵衛が小川新田へと出ていっています

 

引又に河岸ができ、荒川水系を使って江戸との船運が始まるのは

1647年といわれています

青梅、奥多摩地方の物産も多く扱うようになり

たくさんの人が行き来するようになりました

 

 

なので、この二つの江戸道は 

どちらも同じころ

江戸の初期には できていたのではないでしょうか?

 

計算すると・・

どちらも

400年弱くらいの歴史です

 

ただ、引又街道の方が 塚なども多く

庶民に利用されていたように思えます

 

カフェの近くで 引又街道が通っている場所は

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新青梅街道と山口街道(福生街道)の交差点にあった

もとリンガーハット(右の赤い屋根の建物)の 南側です

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これは西側から見たところ

 

東側から見ると こんなかんじで

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右にある新青梅街道は やっと50歳、

左の細い道が 400歳ということになります

 

この写真のつきあたりの もとリンガーハット の先には

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こんな細い道が続いています(左は山口街道)

 

長くなってしまったので 

江戸時代から いろいろな悲哀を見てきたはずの この引又街道については

またいつか ですね

 

 

追記

 

最初の図の縦の道は、

一番左が阿豆佐味天神社から南に下る道で 

ジョイフルのひとつ東側の通りです

右側の2本は グリーンタウンを挟んだ両側の通りで

どちらも 江戸街道より南側はいま その痕跡をとどめていません